公園訪問:浴恩園跡を見に行く(移転問題に揺れる築地市場)

浴恩園跡を見に行く

わたし、現在は埼玉に老犬と一緒に住んでおりますが、東京生まれの東京育ちです。

今話題の築地市場。魚好きのわたしにとって、今まで相当お世話になってきたはずですが、一度も行ったことがなかったので、市場自体がどうなるかわかりませんが、現在の市場を見ることはいずれにしろ、そろそろできなくなりそうなので、その前にと、浜離宮から芝離宮を回る前に、築地を見てから行くかと。2月にしては暖かい日差しを感じて、家を出ました。

にぎわう築地市場(場外市場)
にぎわう築地市場(場外市場)

築地市場ではなく、浴恩園跡を見て、江戸前の大名庭園を感じるという名目で、、

ただ、巷で話題の場所とは言え、築地市場を公園訪問ってのも節操が無いと思い、

そこはそこ、調べてみたら築地市場は、幕末には海軍操練所、その前は松平定信が晩年作庭した、浴恩園という天下の名園だったとのこと。

残された絵図を見てみると、芝離宮を思わせる、ちょっと細々とした汐入の庭園だったようです。
リンク:江戸・東京ときどきロンドン

松平定信さん晩年は評判悪かったようです

惜しくも作庭完成後、松平定信さんが隠居してこの庭園に住んで、数年後に明暦の大火文政12年(1829年)の江戸の大火(kokutaronさま、ご指摘ありがとうごいます。)で消失、松平定信さんもその後すぐに亡くなられたようです。

松平定信さん晩年は、寛政の改革が厳しかったせいか、町民に評判が悪かったようです。

司馬遼太郎ファンのわたしとしては、勝海舟の海軍操練所跡地の話も面白そうですが、庭園つながりということで、今回は浴恩園跡地を見て、かつての江戸湾の雰囲気を感じながら、浜離宮、芝離宮を回ってみようと出発です。

まずは場外の見学から

ついたのは平日の昼前でしたが、さすが築地場外、なかなかの人手でした。海外からのお客さんもどこも多いですね。

よくアジアの市場のよう、と表現されているのを見ますが、感じとしては、昔の秋葉原ですかね。なくなってしまったラジオ会館とか、バッタ屋さんを思い出しました。

海鮮丼のカウンター店とか、マグロの握り寿司がパックに入って売られてるのとか、ちょっと美味しそうでした。

場外市場
どちらかと言うと昔の秋葉原、場外市場

ということで、場内へ

どちらが場内なんだろうと、なんとなくこっちかなと、ウロウロしながら場内へ向かいます。

入れました。

テレビで見たことのある、ターレーが走ってます。電動なんでしょうか、想像してたより音が静かですし、意外と大きいんですね。もっと、小さいバイクぐらいなのかと思ってました。

ターレーの走り回る場内
ターレーの走り回る場内

昼時の場内、人気寿司屋さんは行列ができてます

昼時ということもあって、さすがに人気店の寿司屋さんは受付終了の看板の前にたくさん順番待ちのお客さんが並んでおりました。

一度食べてみたいとは思いますが、築地とは言えそれなりの値段です(銀座当たりリに比べたら格安なのでしょうが)。

有名寿司屋さん前の行列
有名寿司屋さん前の行列

「やったねパパ、明日もホームランだ」

ということで、有名といえばこっちも有名店、吉野家一号店です。

「やったねパパ、明日もホームランだ」で育った世代としては、一度見て見たかったお店です。

こちらは、空き椅子もあるようで、待たされることもないし、値段も他の吉野家より高いということもなさそうです。

ガイドブックなんかによると、他の店舗よりもツユダクやネギ抜きなど、細かく対応してくれるし、店員さんもベテランが多いとのことですが。

今回は、お弁当持参なので記念撮影だけすまします。

吉野家一号店
牛丼一筋100年になったんだろうか?の吉野家一号店

一般客向けの室内販売所、静かです

市場の人が仕事している場所を、あまりウロウロするのも悪いので、一般客向けの室内販売所にまわります。

場外のゴジャゴじゃした雰囲気より静かで、清潔感を感じます。が、静かです。

魚も新鮮で安いんでしょうが、アメ横のような衝撃的な安さはありませんでした。

新鮮で良い品を、お安くしておりますという感じなんでしょうか。

一応、リュックの中に保冷バッグは持ってきたのですが、何も買わずに出てきてしまいました。

一般向け商店街
一般向け商店街

浴恩園跡地の看板はすぐ見つかりました

結局、なにも購入せず浜離宮庭園へ、途中、浴恩園跡地の看板があるはずです。

しばらく歩いたら、すぐに看板は見つかりました。東京都教育委員会が東京都指定旧跡ということで、出したものです。

内容読んでる人ってめったにいなさそう。

浴恩園跡地の看板
浴恩園跡地の看板

松平定信といえば日本最古と言われる南湖公園の作庭者ですよね

松平定信さんと言えば、公園関係者にとっては南湖公園の作庭者としても重要です。

南湖公園、この前このサイトでもオブジェクションマッピングをするというニュースを紹介しましたが、なんで日本最古って言われてるんでしたっけ?

昔、会社の社員旅行で福島に行ったときに寄ったことがあり、いわれも聞いた気がしますが。

wikipediaで調べたら、
日本の公園制度は、公園の項にもあるとおり1873年(明治6年)の太政官布告からであるが、「南湖」が「日本最古の公園」とよばれるゆえんは、1801年(享和元年)、楽翁こと白河藩主松平定信が造成したこの湖の地を身分の差を越え庶民が憩える「士民共楽」という思想を掲げ、レクリエーション地として開放した場所とし、それが今日まで現存しているためである[4]。

誰が言い出したんでしょう? なんか、あまり科学的な検証はされてないような。。(^_^;

ぐぐってみると、同じ福島県にもっと古い「日本最初の庶民公園 向ヶ岡公園」福島県塙町観光協会ってのがありますね。

なんか調べたらもっと出てきそう。。

まあ、「日本最古の公園」として頑張ってるの邪魔すのもなんですので、あまりほじくらないほうが良さそうですが。

(しかし、塙町、微妙に「日本最初の」とか、「庶民公園」とか表現に気を使ってますね。(^_^; 元祖、とか、本家とか地方名物の老舗争いじゃないですが。

昔を感じるものは、難しいですね

現在の築地の浴恩園に戻りますが、現在は市場となり、周囲も高級なビジネス街。かつての風流を感じるのは難しいですね。

オフィスビル
オフィスビル

ということで、浜離宮庭園へ向かいます。

投稿者:

主任研究員

当サイト、公園経営研究所の主任研究員です。 千葉大学造園学科で都市公園について学び、公園管理運営士で一級ビオトープ計画管理士、一級造園施工管理技士などの資格を持っています。

「公園訪問:浴恩園跡を見に行く(移転問題に揺れる築地市場)」への2件のフィードバック

  1. 築地市場の場所がかつて風光明媚な日本庭園であったなんて信じられないですね。浴恩園は、往時の絵図が残っていますが、それを見るに、あの海岸線一帯は、浴恩園、浜御殿(浜離宮)、楽寿園(芝離宮)が並ぶ贅沢なリゾートエリアで、江戸ファンなら想像するだけでゾクゾクします。一点だけ、ここが焼けたのは記載の明暦の大火ではなく、文政の大火だと思います。書き間違えでしょうが念のため。というのも、築地もそうですが、浴恩園も恐らく明暦の大火で出た瓦礫で埋め立てた土地と思われますもので。なお、市場跡地は、公園に戻して欲しいですね。

  2. kokutaronさま、ごめんなさい。1年間、サラリーマンしてまして、更新怠っていました。
    ご指摘ありがとうございます。(何分、昔のことなので勘違いしてました(^_^;

    たしかに今の感覚であの時代の絵図を見るとリゾートエリアですよね。でも、造園計画的に見ると(土地利用上)、リゾートとは程遠い public park以前のイギリスの王宮地(狩猟場)のようなもので、ちょっと異質の空間、リゾートとは程遠いエリアのような気がします。うまく言えませんが、、

    しかし、あれだけの庭園を維持できる江戸時代の経済ってすごいですよね。

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